Enjo-Gと検索すると第二検索ワードに「シャッシャッシャッ」とか「ぽぽぽぽーん」とか「i love you」と曲タイトルが出てくるがもう一つ「wiki」とある。しかしながら「Enjo-G wiki」で検索したところで「
B'z wiki」がトップに出てくる。
なんか申し訳ない。検索してくれた人達やB'zファンに。
というわけでwikiみたいなプロフィール作りたいなとつらつらと書いてたら・・・
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Enjo-G(えんじょうじ、フルネーム:円城寺宇宙(エンジョウジコスモ)、1974年2月17日-)は茨城県日立市出身のミュージシャン、汚声アーティスト。BUBBLE-B feat. Enjo-Gのボーカル、テクノバンド「SmileHunters」のリーダー兼雑用担当。身長177cm。血液型はO型。よく八方美人とか言われるけどそんな血液型占いは信じない、そもそも人の性格を4つに分けるなんて不可能だし、信じてる人目を覚ましなさい。愛称は「えんじょうじ」そのまま。世を忍ぶ仮のサラリーマンの時にはよく「なべちゃん」(年上の人)、「なべさん」(年下の人)と呼ばれる星の下で生まれた運命(さだめ)。つまり本名は渡邊。30年以上「辺」だとおもってたら「邊」だった。
略歴
茨城県日立市の海岸からすぐのところで生まれた。太平洋の産湯に浸かりイカに育てられ、幼稚園に上がるまで頭がイカだった。侵略イカ娘ならぬ侵略イカ男として将来を有望されていたが。幼稚園ではすっかり普通の人間となり絵を書くのが好きな子供に大変身。茨城県教育委員会で芋掘りの絵が目に止まりオーディエンスたちを魅了。国内外屈指の茨城県教育委員長から称賛を浴び、なにかの賞を受賞。独特の色彩感覚は今でも引き継がれ、普段着の出で立ちでも「イロキチ」と呼ばれることが多い。
そんなことだから早々と「他人とは違う」感を醸し出し、小学1年生で肺炎を患い入院、退院後さらにその思いを強め、小学二年生で飛び級で中二病を発病。現在も完治していない。生活習慣病。
そしてそのまま中学生にあがり、たまたま見ていたシティハンターのエンディングテーマ「GetWild」に衝撃を覚え、TMNetworkを聴きまくる生活に変わったとの逸話が残っている。これ以降はEnjo-Gの人生を大きく変える出来事だった。
高校生になり、世の中はバンドブーム。他人とは違う感を出したい年頃(いまでもそう)でYMO、クラフトワークなどのテクノを聴くようになりその傾向が強くなる。と同時にやはりバンドをやろうという話になり、なぜかテクノからのインストの流れで「T-SQUAREのコピーバンドやろうよ!ドラムあいてる」という誘いにホイホイとついていき初めてのバンド「トトカルチョ」を結成。命名はEnjo-G本人で「T-SQUAREのコピーバンドだからTから始まるバンド名がいいじゃん!」という理由で当時Jリーグ誕生前でめずらしい名前だと思いつけたと本人がmixiで綴っている。ギター担当は同じクラスで同じ誕生日で席が後ろだったが、ほかメンバーはギターの友達で初対面だったため断りづらかったためと本人が後にジオシティーズの無料HPで綴っている。
そんな弱い理由でドラムやったため、たいして上達もせず、TRUTHぐらいしかできなかった。
その後、同じクラスのギター担当からボーカルありのバンドをしたいと提案があり同じクラスの席が3つ後ろのやつをボーカルにすえ、コンプレックスのコピーバンドを始める。しかしまもなくして体育の授業中に右足脛の骨を折る大怪我をし、休業を余儀なくされる。ちょうど文化祭があったのでそこに出ようと話をしていた矢先である。うん、あくまでも話だけ。当然のことながらドラムは全く上達していないまま、変わらずBE MY BABYぐらいしかできない。
後にEnjo-GがDJとして活動する際、必ずやる持ちネタ「東京はBE MY BABY」と「TRUTH歌詞付きバージョン」はこの頃からの影響が強いと本人が発言小町で投稿していた。
その後、コンプレックスのコピーバンドから同じクラスからベース引けるやつを加えたメンバーでB'zのコピーバンド「RANDOMIZE」を結成。ギター担当が命名。「ズなのにsじゃなくてzeってのがカッコイイだろ」と理由を告げられ妙に納得する。
そしていよいよ日本で原子の火が初めて灯った街、東海村は中央公民館で初めてステージに上がる。ここでもひとつ音楽の火が灯った。この時になると「どうせ打ち込んでしまえばどうにでもなるじゃん。ドラムいらないじゃん」とドラム技術が全くないことは触れずに言い訳だけで打ち込み・キーボード担当に。とはいえやっぱり才能はないのでテキトウにやっているフリをしていた。後にそのフリが今のステージ上でのダンスに繋がっているんじゃないかと本人がセカンドライフ内で語っていた。
打ち込み担当になり徐々に音楽性にも変化し、以前から憧れていたテクノに傾倒していくことになっていく。
それと同時に打ち込みがちゃんとやりたくなって、当時話題のMacintosh(Centris660AV、後にPowerMac6100/60AVにアップグレード)を購入。するとどうでしょう?映像もできちゃう!これすごい!QuickTime万歳!ってことになり、なぜかVJをやるようになる。
そして茨城のテクノシーンにも顔を出し、当時得意の八方美人キャラを生かし、茨城(水戸)のいろいろなイベントに行って人脈を広げ、ついには茨城県では初めてテクノを加えたオールジャンルイベント「Yellow Ex-pose」を立ち上げる。
茨城内外というか水戸界隈のオーディエンスたちを魅了し、同時にフライヤーデザイン・VJワークスでも称賛を浴び調子に乗る。というか勘違いが更にひどくなる。
そして茨城で初めてのテクノオンリーイベント「rotation」の企画に参画。フライヤーデザイン・VJなど行う。
その当時出会ったshoes(現ミサイルチューバッカ)yam(現Valou)とともにテクノバンド「SmileHunters」を結成。
意外にもSmileHunters初ライブは埼玉県の志木市。
Enjo-G本人が「テルミン買ったからバンドやろうぜ!」とshoesを誘ったとの逸話をインタビューズで答えていた。
結成してまもなくSmileHuntersのWebサイトを立ち上げ、視聴ページ「死兆星はみえているかい」を公開。サブカルに敏感なオーディエンスから称賛を浴び活動範囲が茨城以外にも広がっていった。
そして1999年、SmileHuntersファーストアルバム「失脚!?小癪な咀嚼公爵」をリリース。タイトルはEnjo-G本人がつけた。当時「これはスペース・オペラだから、第一章だから」と豪語。草稿まで存在していた。2013年の今でも意味がわからない。
同じく1999年には蒲田にあるオッタンタというクラブで東京初ライブを開催。あまりの狭さに東京を感じた。対バンにはノイズバンド「カステリアンブースト」がおり、男女カップルのノイズバンドという出で立ちに驚き、もくもくとひたすらにサイン波を出し続ける彼に彼女は無言で紅茶を入れ、アリの絵を画用紙に書き続け並べてはカメレオンを模した粘着性のある伸びるゴムでその画用紙を捕まえては客に渡すというトリッキーなライブに頭狂を感じた。という感じで東京方面ではノイズバンドとの交流など続け、やっぱりうちらノイズバンドなのかなと思い始めた矢先、ファーストアルバム「失脚!?小癪な咀嚼公爵」で話題になりかけていたナードコアに近づくことに成功。そして気がつくとガバやってないのにシャープネルさんに誘われ、新宿SPACE Mで行われた「GABBA DISCO」に出演。もともとSmileHuntersの掟として「コンビニに行けないような格好でライブをする」というのがあり、このGABBADISCOぐらいからメンバーの衣装・メイクがひどい感じになってくる。
その後引き続き新宿ロフトで行われたGABBADISCOにも出演。変なつなぎにそれぞれ自作の楽器を身につけ、GABBAとタイトルが付いているにもかかわらず無視した何かのスタイルは話題を呼び、ROB GEEから失笑される。
しかも頼まれてもいないのに「GABBADISCO」というタイトル曲を勝手に作成。GABBADISCOのコンピに収録されSmileHuntersのメンバーのShoesはしてやったりのしたり顔だった。
着々とSmileHuntersの活動を続けていく中でやはり男3人だとむさ苦しいという事になり、shoesが中心となって女性メンバー加入プロジェクト「shoes先生の 女がいたらいいのにな Smilehuntersに団」略して「S.O.S団」を発団。「ただの女性には興味がありません。 このなかに、可愛い人・優しい人・都合が良い人がいたら私のところに来なさい。 以上。」という感じだったかどうかは不明だが主にエキサイトフレンズで活動していた。しかしスカウトが思うように行かないまま、時は過ぎ、なんとなーくしていたところにTommy february6がチアガール従えて踊っている様をshoes先生がこれだ!と思い早速LYCOSやら千里眼やらAltaVistaなどで「チアガール」と検索。引っかかったチームにオファーを出し、新宿ロフトで行われた「最高大会議」でSmileHunetsとコラボライブを行う。そこに一人ボンボンではなくサバをもったチアガールが後にSmileHuntersに加入するロリエちゃんだった。
こんな感じでSmileHuntesは4人構成となり、Enjo-Gのメイクを迷走し始め迷走したまま迷子中なのが現在のSmileHuntersである。
しかしオリンピックイヤーには日本選手団を勝手に応援するという名目で「オリンピック応援ソング」を地味に発表。2012年のロンドンオリンピックでも発表している。